東成区 モノづくりの歴史

東成区 モノづくりの歴史

大阪市東成区は、大阪市東部に位置する下町の風情が残る静かな住宅街。実は、国内有数の製造業が集積する町でもあるのです。 古くは奈良時代の深江の菅笠づくりに始まり、江戸時代創業の鋳造所もあります。その後、時代を経て工場が集まり、大阪を代表する産業地域として発展。 今も、モノづくりの精神と技術が脈々と受け継がれています。そんな東成区の「モノづくりの歴史」を辿ってみましょう。

奈良時代に遡る菅笠づくり

奈良時代に遡る菅笠づくり

もとは低湿地だった東成区深江の地。
奈良時代、この地に倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)から大和の氏族・笠縫氏が移住してきたと伝えられ、当時は笠縫島と呼ばれていました。
江戸時代に入ると、摂津と河内の国境、暗越奈良街道沿いにあった深江では、お伊勢参りの道中笠を買う人々でにぎわったそうです。「お伊勢音頭」や落語の中でも登場し、全国に名を馳せた「深江の菅笠」。モノづくりのDNAはここにあったのでしょう。
明治時代に入っても、菅笠づくりは、農閑期に農家の副業として受け継がれてきました。

明治から大正へ製造工場が続々創業

明治から大正へ製造工場が続々創業

大阪市内の中心部にある卸売問屋から発注を受け、東成区(当時は今里村など)には、製造工場や町工場が数多く創業します。その分野は多方面にわたり、染織、ボタン、履物などから、ガラス製品、機械製造や金属加工など。さらに、当時新素材として注目されたセルロイドの製造工場も設立されました。文具や眼鏡枠、万年筆、ブラシなどを製造し、地域の有力産業として発展。けれども、時代とともに求められる素材は変化し、需要は減少。現在、その製造工場はありませんが、東成区内にはレンガ造りのセルロイド工場跡や、「大阪セルロイド会館」(国の登録文化財)があります。その建物の様子から、往時の繁栄ぶりを感じることができるでしょう。

戦時中か戦後へ機械工作分野が増加

戦時中か戦後へ機械工作分野が増加

昭和に入ると、産業道路と呼ばれる府道大阪・枚岡線が開通し、その利便性から生駒山麓枚岡地区の伸線業と連携した工場が増加。大阪市内の工作機械卸業も東成区へと集まってきました。
一方、戦時中は軍需工場である「大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)」が森ノ宮に完成し、東成区をはじめとする周辺地域では、鉄鋼、冶金、金属加工、化学などの分野で技術開発や職工の育成が進んで関連工場が増加します。こうした経緯から、東成区を含む東部大阪地域には、機械、機械部品、金属関連などの製造工場が発展してきたのです。

高度経済成長期 幅広い製造業が集積

高度経済成長期 幅広い製造業が集積

経済成長とともに、食品や衣料・繊維製品、化学、印刷、金属、そして機械などの製造業が拡大し、さらに発展。この頃、製造業の町として頂点を迎えました。
なかには、さらに広大な敷地を求めて工場を地方へと移転させた企業も数多くあります。
その後、長引く不況、製造業における国際化が進み、コスト競争等の様々な要因によって、東成区のモノづくりも多様になり、IT、デザイン、福祉、環境などを切り口としたモノづくりも取り込まれるようになります。

厳しい状況下でも、受け継いできた伝統の技、あるいは、他にはない技術力と開発力、そして粘り強い精神を活かして、今も東成区内には、およそ1000以上もの町工場で製造業などが営まれています。そこには、エネルギッシュに働く若者、次世代へと技術をつなぐ職人、時代を乗り切る経営者たちがいます。
さまざまな歴史を経て、現在に至る東成区の町工場とモノづくり。これからも、磨き抜かれた技とモノづくりにかける思いで時代を生き抜き、独自の発展を続けていくことでしょう。

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